江戸時代の仙台七夕
江戸風の七夕をとり入れた仙台では、七夕まつりのことを「たなばたさん」といいました。仙台藩祖伊達政宗公は七夕に関する和歌を8首詠んでおり、この時すでに七夕の行事を取り入れていることがわかります。
元和4年(1618)
「まれにあふ こよひはいかに七夕の そらさへはるる あまの川かせ」
「七夕は としに一たひ あふときく さりてかへらぬ 人のゆくすえ」
寛永4年(1627)
「七夕の 一夜の契り 浅からす とりかねしらす 暁の空」
寛永6年(1629)
「幾とせか 心かはらて 七夕の 逢夜いかなる 契なるらん」
「七夕の 逢夜なからも 暁の 別はいかに 初秋の空」
年不詳
「あひみんと 待こしけふの 夕たちに 天の川せや せきとなるらし」
「雲きりは たちへたつとも 久かたの あまの川せに せきはあらしな」
「なけきこし 人のわかれに くらふれは ほしのちきりそ うらやまれぬる」
7月6日に行われるようになった仙台七夕まつり
七夕まつりは本来、旧暦7月7日の行事であり、仙台でもその例外ではなく、7月7日に行われ、8日の朝に飾り物をつけたまま川に流されていました。その様子が、伊達13代藩主伊達慶邦公の随筆「やくたい草」(明治6年(1873)『楽山公御遺稿』4巻)にも、次のように記されています。
「七月七日を七夕といひて、六日の夕より七夕の古歌を、五色の色紙短冊に書き、又うちわ、扇の類おもひおもひに女子共のつくりもの、ささ竹にむすひつけて、軒端にたてて二星をまつりて、其笹を八日の朝には、かならす川に流す事は、いつこも同じならわし也。」
しかし、この文章の続きに、第7代伊達重村公(徹山公)の時から、一日繰上げ、旧暦7月6日の晩に飾り、7日の朝に流す様に1日繰り上げらて行われるようになった様子が次の様に書かれています。
「仙台にては六日の晩にこのまつりをして、七日の暁には評定橋等より笹を流す風習也。この事をたつぬれは徹山公の御時より御さハりありて、七日節句のおいわひなし。依てはばかりて六日に二星をまつるとそ、遠きむかしとなりぬれは、今の世にははかる事にもあらねとも、其の仕形とおもはる。さて七夕に多く女共の手向るうた、よみ人はしらねとも 七夕に 願の糸を 引かけて こよひそいのる 星合の空」
※文中の「御さハり」とは…重村の子・りゅう姫8歳が宝暦12年(1762)に亡くなったことと推察される。
また、文政3年(1820)の『参詣記』にも、次のような記述があります。
「七月七日朝 御評定橋七夕まつりへ詣てたりし、昨六日夜者人こと打交りて、翌あくル朝早く起き出て、詣でてはべりなんとて、とりとりにいい物して臥候ふしそうろう、今朝ハ昨夜の言の葉にたがは(わ)ず、疾とク起キて参る、(以下略)」
このように、6日の夕方から、笹竹をかざり姫星と彦星を祭って、手習・手芸の上達を願い、また関東・北陸・東北一帯で行われていたように線香をともすところもあり、農家では田の神の乗馬として藁などで七夕馬をつくって屋根に上げるなどして、豊作を祖霊に祈りました。
仙台では、七夕の笹のついた竹は、その小枝を落とし物干竿に使用し、小枝は七夕飾りのついたまま7日朝(時代によっては8日朝)、広瀬川に笹を流して、水を浴び、洗い物をしました。この日を 七日浴なぬかびとも七日盆ともいい、本来は「みそぎ」をして盆祭に入る準備をする日だったのです。
このような七夕まつりも、維新の変革とともに、全国的に衰微する一方でした。特に、明治6年の新暦採用を境に、年々行われなくなり、第1次世界大戦後の不景気をむかえてからは、ますます寂しくなる一方でした。
仙台でも、『仙台昔語電狸翁夜話』(伊藤清次郎)に、大正末期の七夕まつりを、幕末当時のものと比較して「往時のそれに比較する時は到底及ぶところではない」と記しています。
今日の仙台七夕
不景気を吹き飛ばそうと昭和2年、商家の有志達が仙台商人の心意気とばかりに、華やかな七夕飾りを復活させました (大町五丁目共同会で、会長の佐々木重兵衛氏を中心に、桜井常吉氏、三原庄太氏らが協力して、町内一斉に七夕を飾りつけた)。久しぶりにその光景を目にした仙台っ子達は喝采し、飾りを一目見ようとする人で街はあふれました。
翌昭和3年、元来旧暦行事だったのを新暦日付の月遅れ、すなわち民俗学上中暦と呼ばれる8月6日、7日、8日の3日間にわたり、東北産業博覧会の行事として、さらに仙台七夕を盛んにしようと仙台商工会議所と仙台協賛会との共同開催で「飾りつけコンクール」が催されました。
参加したのは東一番丁、名掛丁、新伝馬町、大町通り、国分町、立町通りなど11町会で、8月6日夕方から一斉飾りつけをし、3日2夜にわたる七夕が復活しました。仕掛け物、電飾と様々な趣向を凝らした七夕飾りで、街はお祭りムード一色。しばしば通行整理や交通制限が行われるほどの混雑ぶりでした。この年が仙台七夕が完全に復活した、記念すべき年とされています。
しかし、再び勃発した戦争で七夕飾りは街から消えていきました。戦況が激しくなった昭和18、19年には、いくつかの飾りが商店街にみられただけで、ほとんど飾られることはありませんでした。
戦後復活した仙台七夕まつり
終戦の翌昭和21年、一番町通りの焼けた跡に52本の竹飾りが立てられました。当時の新聞(昭和21年8月7日河北新報)には「10年ぶりの”七夕祭り”涙の出るほど懐かしい」の見出しで報じられるほどでした。
昭和天皇が巡幸された昭和22年には、巡幸沿道に5000本の竹飾りが七色のアーチをつくりお迎えしました。それからの商店街が七夕隆盛にかける熱意は並々ならぬものでありました。
その後の七夕は、商店街振興から観光イベントへと変貌していきます。現在では飾りだけでなく、ステージイベントや飾りの製作体験コーナー、食の魅力がまるごと味わえるフードコートを設置した「おまつり広場」も人気を集め、名実ともに日本一のスケールを誇る七夕まつりとなり、毎年全国から訪れる観光客を楽しませてくれています。
くす玉は以前から、故人の霊を慰めるため、ざるに紙の花を付けて飾られたりしていました。それを仙台市に住む森権五郎さんが戦後の復興もおぼつかない昭和21年頃、庭に咲く美しいダリアの花のように七夕を飾りたいと、軽い球体の竹かごを考え京花紙の折紙で飾り、くす玉を作り普及に尽力しました。その後市内に広まり、今では吹き流しとともに七夕の主流となっているところです。
七夕竹のかげに
仙台七夕まつりは田の神を迎える行事であり、青森ねぶた祭りや秋田の竿燈祭りの神を送る行事と違う点があり、昔から周期的に襲う冷害(天明3年は25万人の死者、天保7年は30万人の死者)という悲惨な歴史を乗り越えようと、豊作の保障と保護を田の神に祈ったことが、七夕まつりを盛んにしてきた理由となっている。
祭り屋台や音頭を歌ったりするものは、田の神に奉納する本番以外の祭りの余興という位置づけであり、「七夕さんいつござる、来年の夏またござれ」と来る夏も来る夏も夢のような美しさで仙台をいろどるようにしていきたい。
※仙台七夕浪漫~由来と七夕飾りの作り方~(菊地ひろ子氏・菊地節子氏著)などの文献を参考に本ページをまとめています。